ステンドグラスへの想い 24  「 TATTO」

TATTO  w400×h700  
1987 / 第1回SGAA国際ステンドグラス作品展出展(アメリカ)

近頃、初期(ステンドグラスを始めた頃)の自分自身をよく思い出すことがある。
特にステンドグラスに関わっていた当時の心の内面とか、自分を取り巻く状況とか…
前にも書いたように、しゃにむに闘志を駆り立て、吠えていた時代。
頭の中は‥いや、身体全体ステンドグラス一色に染まっていた。
何を話すにもステンドグラスの事だけ‥、何を見てもステンドグラスに結び付け‥
イノシシ年生まれの宿命なのか? 猪突猛進そのまんま‥、 周りは迷惑千万である!
でも、自信持って云えるのは、ただステンドグラス一点にだけ集中していた。
ステンドグラスのデザインと技術の向上、レベルアップのみしか考えていなかった。
とにかく情報に関する資料集めと、日々の勉強は凄まじかったと思う。
私の生涯であんなに心砕いて、どっぷり浸かっていた時代はない。
俗に言うステンドグラス馬鹿である、しかし馬鹿と言われる事、
馬鹿と言う事に誇りを持っていた。
馬鹿に成れる快感は、若さ故の事かもしれない。

その当時、目指していたレベルがありました。
以前にも書いたように、”日本ステンドグラス グランドショウ”に出会った衝撃!
それからの私には、グランドショウに出された作品の数々と、作者の方達みんなが
仮想の敵(ライバル)でした。
グランドショウでの作品と作者の方達に申し訳ないが、当時は追い抜く事だけが目標でしたね。
ローカルでは、独り一匹狼で闘っていくのは大変な事です。  
まして環境に恵まれていない状況では、足下だけに目を向けていては、
レベルアップは望めないと本気で思っていました。
現在思うと、心は福岡や九州には殆どありませんでしたね。
特にステンドグラスが盛んな中央や海外に目を向けていました。
福岡で一番・九州で一番・西日本で一番・日本で一番・そして世界へ…
今では笑い話しで済まされますが、当時は本気で思っていて、自分で自分を駆り立てていましたね。
今思うと怖さ知らずも甚だしい、ホント恥ずかしい限りです。

この当時、やっと目指していた作品が出来たと思った作品が写真の「TATTO」です。
この作品は第1回SGAA国際ステンドグラス作品展(アメリカ)に出品したものです。
残念ながら落選しましたが、私にとっては感慨深い作品のひとつです。
この作品が出来た時、”やっと自分が目指していたレベルの作品が創れるようになった”と
思いました。
「TATTO」はステンドグラスをやり始めてから、常に心に温めていたイメージ作品の
ひとつでした。
 花札と刺青、誰も描きたい対象のデザインではありませんよね。

色々調べてみると、油絵やデザインやイラストには刺青が描かれてるけど、
ステンドグラスの世界では、まだ誰も描いてない未知の領域でした。
少し抵抗は有りましたけど、何故か私は絶対創りたかった。
私だけの‥誰も描いてない‥オリジナル作品を創りたかったのかもしれません。
余談になりますが、その後のモノクローム作品の時もそうでした。
常にオンリーワンを心がけ探していた時代でしたね。
この時テクニックとしては、初めてフッ素でエッチング(色抜き)したり、初めてボンディングを
試みたり、ガラス材料として鏡や普通のすりガラスを使ったり、ミラー面の塗装を抜いたりと
新しい試みを良くしましたね。
思い返せば一作品一作品がチャレンジでした。 
実際作品の製作日数は一ヶ月半近くかかりました。 
小さな作品ですが思った以上に長い時間かかりましたね。
出来上がった時には、精も根も尽き果たしホント何日か寝込みましたね。
その当時の試みのひとつひとつ、失敗のひとつひとつが確実に現在に生きてます。
特にデザインをする時には、対象が対象だけにダーティーな嫌なイメージにだけは
絶対表現したくないと思いました。

でも丁度製作をしてる時、運が悪い事に、ニュースで地場やくざのI組とD会の抗争の真っ只中でした。
仕事場のすぐ近くでも、I組とD会の銃による事件、 物騒な時代でした。
(そう言えばつい最近もD会の組長が銃で撃たれ亡くなる事件も、すぐ近所ですね。)
別に狙って刺青のデザインをした訳でなく、まさに偶然のタイミングでした。
この作品は中央の方では評判が良いのですが、その当時は地元に於いては
ホント敬遠され悪評でしたね。
そう言えば余談ですが「TATTO]は某大物俳優の所に行く話がありましたね。
結局話だけで終わりましたけど…
今では着物の先生の個人収蔵に成っています。

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