ステンドグラスへの想い 13 アイスランド カンファレンス

会場のKopavogur Art Museum-Gerdarsafm

無事何事もなく、“ICELAND CONFERENCE2005/ARCHITECTURAL GLASS ART”に出席。
遠い、とにかく遠い気候の厳しい地でした。
今回のような縁がなければ、私にはおそらく行くことはおろか
意識にも上らなかったのじゃないかと思います。
海外でのカンファレンスに出席するのは、14年ぶりアメリカ/ダラスで開催された、
“ワールド グラス コングレス 1991”に出席して以来2度目でした。
4月5日/6日/7日の3日間のカンファレンスでしたけど、
振り返った印象は、私にとっては非常に内容の濃いものでした。
朝から夕方までビッシリと組まれたタイムスケジュール、
全て(当然ですが)英語/アイスランド語/フランス語/ドイツ語‥などが飛び交う中、
英語は全く駄目な私が、チンプンカンプンなのにも関わらず、
眠らずに真剣に聞いていたとは、自分自身驚きでした。
アメリカ/ダラスの時は、アメリカに住んでる妹が通訳で助かりましたけど、
今回は私より少しマシな女房殿がいるだけ、全く通訳なし!
しかし、彼女の助けで単語だけしか解らない私なりに、心に伝わるものはありました。

国民人口29万人位の小さな国、アイスランド共和国、
アメリカの時より小規模なカンファレンスだったけど、とてもフレンドリーで、
会場の中は、みんな和気藹々としてました。

アイスランド/スウエーデン/ノルウエイ/ドイツ/デンマーク/イギリス(UK)/フランス/
オーストリア/スペイン/ポルトガル/カナダ/アメリカなどから
アーティスト及びアートカレッジや美術関係の大学の教授や先生達、
他にスタジオ関係者、経営者の人達が各国から集まり、
現在の< アーキテクチュラル(建築)グラスアート >の置かれている、
動きと現状のレクチャーがあった。
遠い日本から行った私達夫婦2人、目立ったみたいで会う人、会う人、話しかけられ
英語が話せない私は冷や汗ものでした。
しかし、持ち前の図々しさとボディランゲージ、情け無い単語力だけで、とにかくどうにか通じ、
と言うより相手の方達が、優しさで一生懸命理解しようとして頂いたみたいでした。

今回のカンファレンスで、
私個人12・3年くらい前から、うすうす予感がしていた事ですが、
アーキテクチュラル(建築)グラスアートの流れというか、動きが見えてきた感があります。
アーキテクチュラル(建築)グラスアートの世界は、
「グラスアート」と「ステンドグラスアート」にハッキリと分かれて来たと思います。

ヨーロッパ及びアメリカの建築物の大半は、
グラスアート(ペインティング・酸抜き・ラミネート‥)の作品が、主流になって来てます。
その証拠に、今年中か来年には、そう言うグラスアートだけを載せた本
「アーキテクチュラル グラスアート」の3冊目が出版される予定と聞きます。
アメリカのエド カーペンターは、14年前に私がダラスのコングレスに行った時に
丁度、空港などでグラスアートに取り組み始めた頃だったと思います。
アメリカやヨーロッパのアーティスト達は、よりテクニックを駆使し、
スケール感のある建築作品が増えて来てますネ。

業界の環境も、スタジオの持つ影響力が、より大きくなって来てるように思えます。
宿泊施設などをスタジオ内に備え、アーティストはデザインと製作の指示をし、
技術的な面は、スタジオの協力で、テクニックに応じて各プロの職人が製作に関わる。
取り付けは、またその道のプロがクレーンを使いサッシごと建物に取り付ける…
分業がより明確に成って来てるように思えます。
ドイツが、最もこのようなシステムが確立していて、他にオーストリアのスタジオも出席してました。
各国の有名なアーティスト達が利用していると聞きます。
私は、長い歴史の中で確立してきたシステムだと思っていましたが、
今回話を聞いて驚いたのは、
有名なDスタジオもこのシステムをやり始めて、まだ15年だと云うことです。
しかし、長い歴史の下地があってこそ出来たシステムだと思います。

スケールの大きさは、建築家との連携で、さすがに凄いとは思いますが、
しかし、私個人の考えとしては、そう言う流れには疑問を持っています。
アーティストとしては、画家と一緒で、全て、もしくはそれに近いところまでアーティスト自身が
製作してこそ、魂の入った作品が出来ると思っています。
(古いんですかねえ‥)
しかし、私が携わってるステンドグラスとは別物なんですよね…。
工場作品(製品)みたいで、
私自身、昔から憧れ、魂を打ち込む事を話してくれたアーティストさえ、近頃変わってきてる現状、
寂しいですよね!

ある有名なスタジオ責任者の人が、今回話してくれましたけど、
“シンプルなテクニックが大切、近頃は余りにもテクニックばかりを使いすぎて
作品を壊しているアーティストが多い”と苦言を呈してましたね。
より素晴らしい作品を創りたいと思うのは、アーティストとして、至極当然とは思うが
自分自身の実力以上のものを、他人の技術に依存するのは如何なものか…と思いますが、
反面、とても興味を持っている自分がいるのも確か、全面否定することは出来ません。

良いか悪いかと論じるより、もうそう言う時代に入って来てると思ったが良いし、
やはり、別なんですよね!

今回のカンファレンスに出席して、自分自身を改めて見つめ直した時、
「ステンドグラス アーティスト」として歩んで来たこの24年間は、
無駄でなかったと思います。
これからも更に確信をもって進んでいきたいと思っています。

コメント

  1. chiski ishii より:

    パート2から読んで感想を書き終わってから、(あ、パート2ってことはパート1があるんだ・・・)と気付き・・・今度はこちらの感想を。
    アーキテクチュラル グラスアート3が出るんですね!
    つくづくステンドグラスをこの人生でやっていて良かった、と思います。
    なんかこう、雲の上にある夢が、カタチとして、雲の上にホントに見えます。
    昔、アルプスの少女ハイジ(TV番組)のオープニングの映像の中で、ブランコを漕いで漕いで、一生懸命漕いだら、ぽーんって飛んでいって雲の上に飛び移れて、踊っているシーンを思い出します。
    今そんな気分です。
    このブランコは夢行きだ(^-^)!って。
    (幼少の頃は、そのシーンが好きでハイジになりきってましたが。)
    これから、日本もどんどんグラスアートが建築に共存していくのを期待しています。
    しかし、私もやっぱり貧乏性なのでしょうか、手先を動かす方が好きだし、制作は自分で精魂込めて作りたい。
    先生の考えに同感です。
    口ばっかりじゃなくて、頑張って作品つくりま~す。
    頑張らなきゃ(>_<)! ブランコが止まってしまう!

  2. 大久保 禎子 より:

    往復遠い道のり、大変でご苦労様でしたけれど、ご夫婦揃っての旧婚旅行的遠いお出かけ、とっても貴重で有意義な時を過ごされたことお喜び申し上げます。
    私も亡き主人と訪れた、タスマニアの都市計画・建築世界国際会議(カンファレンス)を新ためて思い起こし、同じような体験をされた高見さんご夫妻のご様子、お話を伺い私も当時を彷彿とさせられ嬉しい思いでした。
    これからも良いご体験をバネに、また高見さんペースの良いお仕事が進まれることを願っております。
    お疲れさま、そして良いご体験おめでとうございます。

  3. 内藤 修 より:

    高見さん! とても意義深い旅でしたね。
    アイスランドの人口が29万人ほどということは、たとえば福岡県なら久留米市が30万人超ですから、まずびっくり。
    そして“遠い、とにかく遠い気候の厳しい地でした”との感想は、自然風土がほとんど岩と氷の沙漠なのでしょうね。
    とりあえずこのブログ05.04.19『アイスランド コンファレンス』を、味わいながら読ませてもらいました。
    そして拝読し総じて僕が感じたのは、< アーキテクチュラル グラスアート >とステンドグラスとは、そもそも系譜が異なるものであることを、私なりに再確認できたように受け止めています。
    もちろん、原点は太陽系地球人の変わりない「板ガラスを用いた向日性-光造形」なのでしょう。
    思い起こし20世紀後半に限ればですが、1960年代から所謂「ニューグラス」の観点・思潮を端緒として、20世紀型ステンドグラスの個人主義化が育まれたのでしたし、個人による向日性の造形が当時コールドグラスのレベルでも、人々の熱烈な興味をそそり、その後の約20年間、新規性の世界的潮流として、一定の新たな成果を挙げたのでした。
    そして一方で「アーキテクチュラル・グラスアート」の観点とは、1980年代から「ニューグラス」と建築との活路模索の中で、度し難く無機的な現代の工業建築を軸とした融合の時代に向かった。
    工業建築に対応した、新たな情熱のステージを形成したが故に、例えば『アイスランド コンファレンス』において、一定の意義ある更なる方向性が提示されたものと、現状の私は想像しています。
    基本的に『アイスランド コンファレンス』が、アングロン人 x サクソン人、つまり多くの参加者がアングロサクソン人を軸とした集合であったとすれば、このステージ表「アーキテクチュラル・グラスアート」とは、地球市民の度し難い混迷についての解法を求め合う場であったことは、他方-意図の裏付けとして、一方で間違いのないことでしょう。

    地球市民それぞれ生い立ちの自然風土が、如何ばかりの沙漠であったにせよ森であったにせよ、最早この先は異論を待たず、自然風土の緑化と共に魂の緑化が、全ての地球市民に不可欠。
    21世紀を共に生きる周縁なる地球市民の一人として、私は変わりなくそう思います。

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